川上未映子「夏物語」文藝春秋 2019年7月 初版
「自分の子供に会ってみたい」三十八歳の夏子は、日に日に増すその思いを無視できなくなっていた。しかし、パートナーはおらず、性行為もできそうにない。もし、誰かの精子さえあれば、生むことはできるが……。
生む・生まないということについて考えざるを得なかった周囲のものたちの痛みに触れながら、夏子は自身の声を拾っていく。夏子の三十八年分の人生を感じられる、550ページを超える長編作。
第73回毎日出版文化賞文学・芸術部門受賞作。2020年本屋大賞ノミネート作品。
想像を超える背景がある
本作は一部と二部に分かれている。一部は、芥川賞受賞作品の『乳と卵』の加筆修正版である。
小説家を目指し東京で暮らしている夏目夏子、三十歳。一部では、豊胸手術をしたい三十九歳の姉・巻子と、思春期を迎え身体の変化に嫌悪感を抱く姪・緑子に、振り回されながら接する夏子が描かれている。賑やかに大阪弁で言葉を交わす姉妹に対して、十二歳になる緑子は口を閉ざしたままだ。読者は、緑子の胸中を文中に挿入された日記を通して知ることになる。
小説家を目指し東京で暮らしている夏目夏子、三十歳。一部では、豊胸手術をしたい三十九歳の姉・巻子と、思春期を迎え身体の変化に嫌悪感を抱く姪・緑子に、振り回されながら接する夏子が描かれている。賑やかに大阪弁で言葉を交わす姉妹に対して、十二歳になる緑子は口を閉ざしたままだ。読者は、緑子の胸中を文中に挿入された日記を通して知ることになる。
生むまえに体をもどすってことなんやろか、ほんだら生まなんだらよかったやん、お母さんの人生は、わたしを生まなかったらよかったやんか、みんなが生まれてこんかったら、なにも問題はないように思える。誰も生まれてこなかったら、うれしいも、かなしいも、何もかもがもとからないのだもの。(P134)緑子は「生まれてきたら最後、(中略)お金をかせぎつづけて、生きていかなあかんのは、しんどいこと」という思いを抱き、絶対に子どもを生まないとまで書き記している。シングルマザーの巻子が働き詰めになって疲れているのは、子どもであるわたしがいるからだと感じ、早くお金を稼ぎたいと緑子は思う。しかし、緑子にはまだそれはできない。
緑子が反出生主義を唱えるのは、貧困の家庭で育ったことと、母・巻子の苦労を自分のことのように感じてしまう関係性が影響しているように感じられる。
本作で様々な立場から繰り出される発言には、緑子のように相応の背景を感じられる。すべての意見に納得できないとしても、きっと誰も頭ごなしに否定することはできない。
二部では、三十八歳になった夏子が、このまま自分の子どもに会わないでいいのかと考えるようになる。パートナーもおらず、性行為のできない夏子が子どもをつくるとしたら、AID(非配偶者間人工授精)しか方法はない。
小説家仲間の遊佐リサは「子供をつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」「必要なのはわたしらの意思だけ。女の意志だけだ」と断言し、夏子の背中を押す。しかし、「相手がいないから精子バンクって、飛躍がすごくないですか?」「どこの誰かもわからない男の精子ってことですか?」と怪訝な顔を見せる担当編集者の仙川さん。
夏子は小説家として一冊ではあるがヒットを出し、連載をかけ持つようになっていた。仙川さんは夏子の才能を信じている。
ねえ、しっかりしてくださいよ、夏子さん。子供が欲しいなんて、なぜそんな凡庸なことを言うの。真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。子どもなんて入りこむ余地がないんです。自分の才能と物語に引きずりまわされて、その引力のなかで生きていくのが作家なんだから。(P400)仙川さんは自身もそうだったように、夏子にも子どもが入る余地のないほど仕事にのめり込んで欲しいと思っているようだ。それは仕事を愛するがゆえ、夏子にしかかけない小説があると信じているがゆえである。しかし、夏子は仙川さんの言葉に素直に従うことはできない。
そして姉の巻子にもAIDを考えていることを告げるが反対されてしまう。夏子は、電話口で気持ちをぶつける。
なんで反対するん? それ巻ちゃんが言えること? べつに賛成してくれる必要もないけど、そやけど反対もできひんやろな。巻ちゃんに迷惑かけるわけでなし。ひとり親なんかどんだけおんねん、親知らん子どもどんだけおんねん、うちらが大人になれてんから、どんな子どもでもでかなれるわ。生きていけるっちゅうねん(P404)
夏子はAIDに向けて動き出す。が、AIDで生まれてきた善百合子の抱く深い苦しみに触れることで、夏子の意思は揺れ動いていく。最後に夏子が
下した決断は……。
本作は、この現実世界にも「生む・生まない」という問いに対して多様な答えがあり、そのすべての答えには想像もしきれないような背景があるということを教えてくれるような作品である。
下した決断は……。
本作は、この現実世界にも「生む・生まない」という問いに対して多様な答えがあり、そのすべての答えには想像もしきれないような背景があるということを教えてくれるような作品である。
思わず胸が熱くなる家族との思い出
夏子と巻子は母子家庭で育った。夏子が十三歳の時に母は他界し、夏子の祖母もその二年後に他界。巻子と共に働きながら、大きくなった。作中には何度も繰り返し、母と祖母を思い出すシーンがある。
祖母・母・姉・夏子の四人で揃いのワンピースを買ったことや、死んだら「ぜったいに会いに出てくるでえ」と話す祖母との会話、一生懸命働く母を見て胸がいっぱいになって泣きそうになったこと。あったかみのあるエピソードがいっぱい出てくる。もちろん巻子との思い出もいっぱいあって、ふとした折に夏子の中に蘇る。
夏子が幼稚園の頃、遠足で葡萄狩りにいくことを夏子は楽しみにしていた。でも、お金がなくて行けなかった。巻子は悲しむ夏子を見て、部屋中の至る所に靴下やハンカチをひっかけて「いまからふたりで葡萄狩りやで」と言う。小さな夏子を抱っこして、葡萄に見立てた靴下を取らせてやる巻子の優しさには、思わず胸が熱くなる。
「わたしはあんたのお姉ちゃんやで」と示される度に、夏子はどれだけ心強く感じただろうか。
祖母・母・姉・夏子の四人で揃いのワンピースを買ったことや、死んだら「ぜったいに会いに出てくるでえ」と話す祖母との会話、一生懸命働く母を見て胸がいっぱいになって泣きそうになったこと。あったかみのあるエピソードがいっぱい出てくる。もちろん巻子との思い出もいっぱいあって、ふとした折に夏子の中に蘇る。
夏子が幼稚園の頃、遠足で葡萄狩りにいくことを夏子は楽しみにしていた。でも、お金がなくて行けなかった。巻子は悲しむ夏子を見て、部屋中の至る所に靴下やハンカチをひっかけて「いまからふたりで葡萄狩りやで」と言う。小さな夏子を抱っこして、葡萄に見立てた靴下を取らせてやる巻子の優しさには、思わず胸が熱くなる。
「わたしはあんたのお姉ちゃんやで」と示される度に、夏子はどれだけ心強く感じただろうか。
種無しと呼ばれた男性や、産めない女と言われた女性、他人の子と言われた子どものそばに、もしも「わたしは何がなんでもあんたの味方だ」と示してくれる人がいたら、少しは苦しみが軽減されたのではないだろうか。体裁を気にするあまり、誰かに苦しみを背負わせている事実が現にあって、その苦しみは男性から女性へ、女性から子どもへと連鎖しているように思う。一定の形式を完全に気にしないということも難しいのだが、体裁というものが薄らいだ先に、救われる人が必ずいるということを感じられる作品でもあった。
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