沼田真佑「影裏」文藝春秋 2017年7月 初版
ある日突然、親友が姿を消した。追い求めるうちに、自分の知らない友の顔が明らかになっていく。
人と人が繋がるとは一体何を指すのだろうか。今作は、人の繋がりの濃淡が描かれた一作のように思う。
沼田さんは本作で第122回文學界新人賞を受賞しデビューし、第157回芥川賞を獲得した。2020年、綾野剛と松田龍平のW主演で映画化された。
「生」を感じる描写がすごい
岩手に異動してきた主人公・今野。仕事先で出会った日浅とは、年中川釣りに出かける仲となる。ということで、本作には川釣りの場面が度々登場するのだが、とにかく豊かな描写の連続で読んでいて非常に楽しい。例えば、釣りの餌を川に投げ込む様子はこう描かれている。糸はナイロンなのでブランコのように自身の重みでもたつきながら川面を渡り、対岸すれすれの深みに正確に落ちた。冷たい川水にさらされイクラの赤味がほの白くぼやけ、見る見る水底へと消えていった。(P12)私には釣りの経験がないが、この文章を読んだ時とても鮮明に脳内で再生された。文章から情景を思い浮かべる小説の面白さが詰まっている本だと感じた。
また今野は、川釣りをする過程で色んな生物の存在を感じている。それらの描写も秀逸だ。
林の下草からは山楝蛇が、本当に奸知が詰まっていそうに小さくすべっこい頭をもたげて水際を低徊に這い出す姿を目の当たりにした。(P5)山楝蛇(やまがかし)*カカシは古語で蛇を意味する。ヤマガカシで山の蛇をさす。
奸知(かんち)*悪いことを考え出す知恵のこと
緑豊かな場所では、人間の顔色を伺うことなく、生物たちが生きているのだということが感じられる。そして、そういう場所で釣りをしている今野と日浅がキラキラして見えて仕方がなかった。
自然以外にもう一つ、丁寧に描写されたものがある。今野の親友である日浅だ。
後ろ手に日浅に水筒を渡すと、喉を縦にして美味しそうに飲んだ。眠たげな瞼のあいだをいっそう細めて、手の甲で日浅は唇をぬぐい、眉に溜まった汗の滴は指先でつまんでそこらへんに捨てた。日浅は何度も「生」を感じられるような描写で登場してくる。他の人間たちの描写は、これほど生々しいものには至っていない。今野が釣りの楽しさに没頭するのと同じくらい、日浅という男そのものに夢中になっていたことの現れだろうか。
今野は日浅によって岩手という土地に馴染んでいたと言っても過言ではない。しかし、日浅は今野に何も告げずに消えてしまう。そこから、物語は不穏な空気を纏っていく。
タイトルの「影裏」が指すものは
以下、ほのかにネタバレあり日浅を追い求める今野は、日浅の実家を訪れる。「息子なら死んではいませんよ」そう言い切る父は、行方不明届を出さないでいた。日浅は震災の被害に遭っている可能性もある。届けを出すべきだと今野が懇願すると、父は日浅の過去を話しはじめる。それは、今野の知らない日浅の顔であった。そして、断固として探すべきではないという態度を貫かれた今野は、壁に貼ってあった「電光影裏斬春風」という文字を見る。
電光影裏に春風を斬る。不意に蔑むように冷たい白目をこちらに向ける端正な楷書の七文字が、何か非常に狭量な、生臭いものに感じられた。(P89-90)電光は稲妻を、影は光を示す。"電光影裏に春風を斬る"には「命は落としても魂は消えることはないということをたとえた言葉で、春風を鋭く光る稲妻で切り裂いたとしても、春風は何の影響もなく、いつもどおり吹くという意味」がある。参照:四字熟語辞典
タイトルの「影裏」はここから来ている。読み始めたには「人には裏の顔がある」というテーマだと思っていたが、どうもそれだけには思えない。
日浅にとって自分(今野)という存在が一瞬の稲光に過ぎなかったということ、そこから転じて、日浅は自分や父、震災までも、稲光のようなとるに足らないこととして、いつも通りに生きていられるような男である、ということを惚気て讃えているようにもとれた。はたまた、日浅という男に魅了された輝かしい日々と、その輝きを知ってしまった後の日々を描いた作品として、つけられたタイトルなのかもしれない。
多分に解釈ができる作品なので、是非本書を読んで、広がる想像を楽しんでほしい。
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